パブリック・ガーデンズ

1836年、ノバスコシア園芸協会は、都市生活から離れて「健康と笑顔」の源を見つける場所として、「あらゆる階級の人々が利用できる」ビクトリア様式の庭園の建設に着手しました。英国や大陸の素晴らしい公共の庭園が目指すものを、ここでも作ろうとしたのです。

この庭園は、北米で最も優れたビクトリア様式庭園の1つと見なされています。英国ロンドンにある聖ジェームズ・パークが、大まかな基盤となっています。庭園の建設は、1837年に協会が5½エーカーの土地の寄贈を受けたことから始まりました。庭園はその後35年間をかけて、現在の16エーカーの規模にまで拡大しました。

ビクトリア時代の人々は、自然は健康の維持のためになるばかりか、精神をリフレッシュして道徳精神を向上させる力があると信じていました。当時の人々は木々が建ち並ぶ広い道を優雅に散策することをこよなく愛しました。

庭師であり、この庭園の監督者の1人である、リチャード・パワー(ニューヨーク セントラルパークの設計士、フレデリック・ロー・オルムステッドと非常に親しい友人でもありました)は、庭園設計において重要な役割を果たしました。

この庭園は、今世紀に入ってもわずかな改修しか行われず、元々あったビクトリア様式の特徴を多く留めています。この庭園には、温室、納屋、住居2軒(1847年)、クロケットおよびアーチェリー場(1874年)、カナダで最初に作られた公共の芝テニスコート(1876年。現在は庭園の南西端にある遊び場)、屋根付きスケートリンク(1863~1889年。カナダで最初の屋根付きスケートリンクと評される)などの施設がありました。ハリファックス市は、ノバスコシア園芸協会が所有していたこのパブリック・ガーデンズを、1874年に15,000ドルで購入しました。

キャンプ・ヒル墓地

キャンプ・ヒル墓地は1884年に設立されました。墓地が設立される前は、コモンズの中でも最も不毛で人目の引かない地域でした。

「キャンプ・ヒル」の名称は、シタデル・ヒルの大砲の射程圏外で侵略軍が最後に野営した可能性のある土地であったことが由来となっています。ここは1844年に神聖化され、6年後に2,000本の木が植えられました。中でも、夏の終わりに白い花をたわわに咲かせるアジサイが有名です。もしこの地を散策する機会があれば、その美しさに決して裏切られることはないでしょう。

ハリファックスの著名な歴史上の人物が、ここに何人か埋葬されています。中でもアレクサンダー・キース、ビオラ・デスモンド、ジョセフ・ハウなどが有名です。

アレクサンダー・キースはスコットランド生まれで、ビール醸造で知られていますが、フリーメーソンに属し、有名なカナダの政治家でもありました。キースはハリファックス市長を3期務めました。

ビオラ・デスモンドは、1946年にノバスコシア州ニュー・グラスゴーの映画館で人種隔離に抗議した黒人のノバスコシア人です。彼女はローズランド劇場の白人限定エリアから立ち去ることを拒んだため、隔離徹底のために適用された軽微の税法違反で不当な有罪判決を受けました。デスモンドのケースは、カナダの歴史における人種差別の中で最も一般に知られた事件の1つで、カナダの近代市民権運動の幕開けにつながりました。

ジョセフ・ハウは、ノバスコシアのジャーナリストで、政治家、公務員でもありました。1835年、ハウはハリファックスの政治家と警察による公金着服を抗議する手紙を公開し、その後、重大な刑事犯罪である文書煽動罪で起訴されました。ハウは、市民収賄の例を次々挙げて、陪審員に対し6時間以上かけて請願しました。裁判官はハウの有罪を求刑しましたが、彼の情熱的な声明に揺さぶられた陪審員は無罪と判断しました。これは、カナダの報道の自由を求める闘いにおいて画期的な出来事と捉えられています。ハウはノバスコシア州の最も偉大で最も愛された政治家の一人です。

スプリング・ガーデン・ロード

1970年まで、庭園の向かい側にあるこの道路の付近は、コモンズから借り入れた土地に19世紀の家々が建ち並んでいました。

1821年ごろには既に、このスプリング・ガーデンから庁舎まで散策することが、市民には人気のアクティビティになっていました。かつてはスプリング・ガーデンズと呼ばれた魅力的な住宅街の中心部でしたが、1890年には数々の小売店舗が建ち並び始めました。

スプリング・ガーデンという名前は、オールド・ベリング・グラウンドという古い墓地の南と西に広がる土地(現在は裁判所とダルハウジー・サクストン・キャンパス)にかつてあったガバナーズ・ガーデンに由来していると考えられています。またこの名前は、庭園だけでなく、庭園の下に流れる泉(spring)から名付けられたとも言われています。

6つに満たないブロックからなるエリアに、ハリファックスの主要なショッピングエリアと、モントリオール以東で最も人通りの多い通りがあり、1日に2万5千人以上の人々が訪れて、ここで提供される様々なサービス (店舗、ギャラリー、パブ、カフェ、レストラン、8つのスクリーン数を備えた映画館)を利用しています。

聖マリア教会

1899年に建てられた聖マリア教会は、ゴシック・リバイバル様式のカトリック教会です。聖マリア教会は1997年にカナダ国定史跡と指定されました。

1950年に法王ピウス12世が聖堂と定め、法王ヨハネ・パウロ2世も訪問しています。

支えなしにそびえる花崗岩尖塔としては北米で最も高いものの1つを備え、その高さは歩道のレベルから189フィートにも及びます。この教会は、現地産の鉄鉱石で作られ、研磨された花崗岩で装飾されています。

ヒストリック・プロパティ

ヒストリック・プロパティの建物は、港が商船、私掠船(しりゃくせん)、海軍の船舶で埋め尽くされていた帆船の時代、1700年代後半から1800年代初頭に建設されました。

 ここにある建物群は、水際地区の倉庫としてカナダで最も古いものです。埠頭および倉庫は、都市成長に必要だった貿易を支援するために、船乗りたちによって建てられました。今日では、これらの建物に多くの店舗、レストラン、パブが軒を並べています。


1950年代には、海上輸送される品が減少したことと相まって海上貨物倉庫の必要性も減少しました。1960年代には、これらの建物は都市再生のためにもう少しで取り壊されるところでした。この地域の経済的繁栄の回復はほぼ不可能であろうと考えられていたのです。この街の市民達は抗議を行ない、これらの建物を守りました。このヒストリック・プロパティには、コリンズ銀行、プライバティア・ワーフ、オールドレッドストアなどの有名な建物があります。

大西洋海上軍

カナダ最大の海軍工廠、そして北米で最も歴史の古い海軍工廠(1758年)を持つ大西洋海上軍(Marlant)は、カナダ海軍内の主要2編隊のうちの1つで、もう1つの編隊はブリティッシュコロンビア州にあります。MARLANTは、単純に言うと、HMC(カナダ海軍)工廠、スタダコーナのカナダ軍基地、ウィンザーのカナダ軍基地、ニューファンドランド州セント・ジョンズのカナダ軍駐屯地、海軍の大西洋艦隊から構成されています。MARLANTではおよそ7,500人が雇用されています。そのうち5,350名はカナダ軍に所属しています(正規軍5,000人、予備軍350人)。

マーフィーズ・オン・ザ・ウォーター

マーフィーズ・ケーブル・ワーフ/アンバサツアーズ・グレイラインでは、ツアーボートの予約ができ、また売店やその他のチケット売り場(ホッパーブース、シルバブース、ミニハット、ツアーボートセンター、セオドアストア、ヒストリック・プロパティーズのキオスク、ペギーズ・コーブ、ルーネンバーグおよび市街ツアー)があります。各種ツアーのチケットは、どの店舗からでも購入できます。ここにはシーフードレストランと土産物店があります。

マーフィーズ・レストラン&パティオはカジュアルダイニングとなっており、シーフードの各種メニューと地ビールを素晴らしい景色を眺めながらお楽しみいただけます。広い店内と明るく風通しの良いパティオを備えたこのレストランは、ハリファックス・ウォーターフロントでも最長の埠頭の端に位置しています。マーフィーズではどの席からも、活況を呈する港の様子や、ジョージ島、さらにはマクナブ島まで遮るものなく一望でき、見事な眺めを満喫できるでしょう。

風光明媚なハリファックス・ウォーターフロントの最大のギフトショップ、マーフィーズ・ケーブル・ワーフはオンラインでの販売も行っています。同店は、地元産の逸品、東海岸トレンドの衣類、ユニークなギフト、室内インテリア製品のセレクションなど、幅広い品揃えとなっています。

ハリファックス大爆発

1917年12月当時、ノバスコシア州のハリファックス市は、カナダ自治領のハブ都市でした。第一次世界大戦が、この港に活気と繁栄をもたらしました。港は戦時品の運搬で混雑していました。食糧品、軍需品、軍隊などを載せた船団は、護衛の重武装艦艇を伴ったヨーロッパへの航海準備を整え、ベッドフォード・ベイスンに集結していました。非武装の船舶が港にいかりを降ろしていましたが、この船の乗組員たちは敵に情報を提供する可能性があるというおそれから上陸を禁止されていました。新しい鉄道と終着駅が完成間近だったことから、この大陸横断鉄道の職員が扱う積荷も加わっていたのです。軍隊、ヨーロッパへの乗船待ちの人々、そこに駐屯していた者やその家族、豊富な雇用の恩恵を受けた人々などで人口が大きく増加していました。

12月6日の午前7時30分、フランス船籍のモンブラン号は、港の外の停泊地を離れ、ベッドフォード・ベイスンの船団の集まりに加わりました。モンブラン号には、未加工および乾燥したピクリン酸が2,300トン、TNTが200トン、綿火薬が10トン、35トンのベンゾールという、非常に爆発性の高い混合物を積載していました。同時に、空荷だったノルウェー船籍のイモ号は、ベルギーへの救援物資を積むために、ニューヨークへ向けて出港しました。ナロウズ海峡の入り口で、判断を誤った操縦がいくつも重なった結果、イモ号はモンブラン号の船首と衝突してしまいました。衝突そのものは深刻なものではありませんでしたが、まもなくモンブラン号で火災が発生しました。船がすぐに爆発すると推測した船長、舵手、乗組員は、救命ボートを出してダートマス対岸に避難しました。

船は20分ほど燃え続け、ハリファックスの賑わう産業地域の北端にある、リッチモンド地区の第6埠頭まで漂流して停まりました。そのスリル満点の光景に、危険を知らない見物人が多く集まってきました。モンブラン号が積載していた爆発性貨物のことを知っていたのは、ごく少数の海軍将校と列車の操車係だけで、警告を発する時間はほとんどありませんでした。

時刻が午前9時05分となる直前、モンブラン号が爆発しました。モンブラン号が航海を終えた波止場周辺には、船体のひとかけらすら残っていませんでした。周辺に破片が飛び散り、散った先には破片が埋まってしまうほどの威力で建物を崩壊しました。

教会、住宅、学校、工場、港湾、船舶は、爆発の勢いで破壊されました。登校中に立ち寄った子どもたち、窓際にいた工員、住宅内にいた家族、船内にいた船員たちが瞬時に命を落としました。負傷の数々は見るに無残で、壊れたガラスによる失明など、ショックや混乱は計り知れないものでした。

イモ号の船長、舵手、そして乗組員5人も死亡しました。モンブラン号では、後に外傷が原因で亡くなった1名を除いて、全員が助かりました。

幸い、何千人もの訓練された陸軍と海軍による救助がすぐに始まりました。市の役員たちは迅速にボランティア支援の調整をおこない、この災害が起こった日の午後には、救済委員会が結成されました。連絡を受けた周辺地域は、賞賛すべき迅速な対応を行いました。病院や避難所はすぐに収容能力を超え、港内の使用可能なすべての建物、さらには船さえも徴用され、一部の負傷者やホームレスの人々は鉄道で他の都市に搬送されました。

この災害のニュースは、同じ日の朝にボストンにも伝わりました。その夜、医療関係者や公安委員会のメンバーを載せて物資を積んだ列車がハリファックスへ向けて出発しました。カナダ全域と世界の多くの地域からの支援が押し寄せましたが、中でも、マサチューセッツ州からの継続的な支援は忘れ難いものでした。毎年クリスマスにボストン・コモンに光り輝く巨大なクリスマスツリーは、ノバスコシアの人々からの感謝の贈り物です。

1,630軒の家屋が全壊しましたが、その多くは爆発後に瞬く間に燃え移った火事によるものでした。損壊した家屋は12,000軒、避難所にすら入れない人が6,000人もいました。ハリファックスとダートマスは窓ガラス1枚さえも残っていない状況でした。

死亡者数は1,900名以上に上りました。およそ250の遺体は身元不明で、 ついに見つからなかった犠牲者も数多くいました。手足の切断手術は25件、 眼球の除去手術は250件以上、全盲になった人は37人に達しました。病院での治療件数は4,000をはるかに超え、民間の医師による件数もさらに数百件を数えます。

カナダ自治領政府は、1918年1月22日にハリファックス救済委員会を任命し、年金や損害賠償請求、居住の安定確保、爆発犠牲者のリハビリなどにあたりました。この救済委員会がようやく解散されたのは、1976年6月のことです。年金は、現在、退役軍人省から支払われています。

この悲劇後、結果的にハリファックス市にもたらされた恩恵もあります。医療、社会福祉、公衆衛生および病院施設が増強および改善されました。港に関する規則が強化され、人間の判断ミスが悲劇を起こさないよう安全が確保されました。被災者向け住宅として建設されたハイドロストーンの開発は、当時の非常に高い水準の都市開発を今に示すものです。

爆発事故後1週間経たずして、公式調査が開始されました。モンブラン号の船長と舵手、さらに海軍の指揮官が故殺罪で起訴され、保釈金により保釈されました。その後、被告のいずれに対しても、重過失致死を実証できず、起訴は取り下げられました。ノバスコシア地区連邦地方裁判所は1918年4月に、この災害の責任はモンブラン号のみにあると宣告しました。1919年5月、カナダの最高裁判所への上訴の結果、両船舶には同等に過失があるという判決が下りました。当時の最高権威であったロンドンの枢密院は、この最高裁判所の決定に同意しました。

こうして、原子力時代以前の最悪の人工爆発事故においては、誰もその責任をとることはありませんでした。オッペンハイマーはこの事故による影響を調査し、広島や長崎に落とす予定の爆弾の威力を計算しました。

ハリファックス市とダートマス市にある多くの墓石や、人工建築物、記念碑が、この爆発事故を今に伝えています。中でも最も際立っているのは、爆発現場を見下ろすフォート・ニーダムにあるメモリアル・ベル・タワーです。タワーには、1920年にユナイテッド・メモリアル教会に寄贈されたカリヨンの鐘が吊るされています。この教会は、爆発で破壊された2か所の教会に代わって建てられたものでした。鐘の贈呈式では、爆発で両親ときょうだい4人の家族全員を失った少女がカリヨンの演奏をしました。毎年、12月6日午前9時には、爆発事故の犠牲者を偲んで教会で追悼ミサが行なわれます。この時鳴り響くベルの音は、ノース・ダートマスのナロ-ズ、フォート・ニーダムの全域、そして1917年のハリファックス大爆発によって被災した全域で聞くことができます。

タイタニック

処女航海

1912年4月10日、タイタニック号はサザンプトンから処女航海へと出港しました。その時、アメリカの定期船ニューヨーク号と異常接近するという危険な事態が発生しました。ニューヨーク号のロープが切れ、タイタニック号がサザンプトンを出港した際にその航路へと侵入してしまったのです。タイタニック号のエドワード・スミス船長は、プロペラ推力を使用して、ニューヨーク号との衝突を回避しました。また港内タグボートも、このアメリカ定期船を遠ざけるよう支援をおこないました。この事件は、タイタニック号が洗礼を受けずに就航したことと相まって、航海の悪い予兆であったと考える人もいます。

4月10日午後6時30分頃、タイタニック号はフランスのシェルブールに到着しました。サザンプトンでの異常接近のため、寄港が1時間遅れていました。ホワイト・スター・ライナーの連絡船ノマディック号は、1等客と2等客の乗客をフェリーで輸送し、別の連絡船トラフィック号が、3等客の乗客と郵便貨物を輸送しました。この補給船ノマディック号は、現在も唯一運航しているホワイト・スター・ラインの船です。ノマディック号は社会開発省が購入し、2006年にベルファストへと返されました。ベルファストに戻った最初の2週間に、30,000人以上がノマディック号を見学に訪れました。この船の改装のため募金活動の成功に期待が寄せられています。さて、シェルブールに到着したタイタニック号ですが、埠頭に対して船体が大き過ぎるため、港に入港することはできませんでした。90分の停泊後、タイタニック号はシェルブールからアイルランド南岸にあるクィーンズタウン(現コーブ)へと出港しました。

1912年4月11日、タイタニック号はクイーンズタウン(コーブ)に到着し、乗客の一部と郵便物を下ろし、新たに乗客と郵便物を乗せて、ニューヨーク市に向けて大西洋をわたる航海へと出発しました。ここでも、この超大型船は埠頭につけることができなかったので、クイーンズタウンの港との間で乗客をフェリー輸送しなければなりませんでした。このために使用された連絡船は、アメリカ号とアイルランド号でした。32歳の教師兼イエズス会の聖職者であるフランシス・ブラウンは、ここで船を降りました。ブラウンはロンドンの裕福な魚介業者の妻であったリリー・オデールとその家族に招待されて、サザンプトンからクイーンズタウンまでタイタニック号に乗船していたのです。私たちが今日見ることのできるタイタニック号の現存写真の多くは、ブラウン司祭が撮ったものです。

衝突と沈没

1912年4月14日、タイタニック号は氷片と氷山を警告する内容の電報を受信しました。スミス船長は、大西洋上で16~20マイル南へ進路変更をおこないましたが、氷山を避けるための進路変更としては十分ではありませんでした。午後11時40分、水中の氷山の出っ張りと衝突し、船体に250から300フィートにわたる断続な穴が開きました。船は遭難信号花火の打ち上げ、モールス信号の発信、そして電報の送信をおこなって助けを求めました。一部の乗客とクルーは、救命ボートに乗り込みました。

1912年4月15日午前2時20分。タイタニック号は沈没し、衝突した氷山は漂流して行きました。

救助活動

1912年4月15日午前4時。SSカルパチア号が生存者の救助のために到着しました。午前4時10分から8時10分まで、4時間かけて救命ボートを回収しました。救命ボート13隻と遺体4体が回収されました。午前8時50分ごろ、カルパチア号は沈没地点を離れ、ニューヨーク市に向けて出発しました。氷は広範囲にあり、カルパチア号はその晩深夜まで氷の漂う海域を航海をすることになりました。

1912年4月17日、ケーブル敷設会社の船マッケイ=ベネットが、遺体回収のためにハリファックスのカールセン・ワーフを出港しました。アメリカ商務省上院委員会は、沈没に関する調査を依頼しました。

1912年4月18日、カルパチア号はニューヨーク市に到着し、タイタニック号の13隻の救命ボートをホワイト・スター・ライン埠頭に降ろしました。その後、カルパチア号は生存者をキュナード埠頭に降ろしました。

キース ビール醸造所

アレクサンダー・キースは1822年にこの建物を購入しました。キースはスコットランドで生まれ育ち、エジンバラとロンドンで働いている間に醸造の経験を積みました。1821年に、彼はハリファックスのアーガイル通りにある醸造所で働き始めました。キースはその後、ローワー・ウォーター通りにある醸造所を購入しました。敷地が広く、大規模な醸造が実現できるというのが理由でした。キースはここに自分の醸造所を設立し、ストロングエール、ポーター、ジンジャーワイン、ライトビール、テーブルビール、スプルースビールなど、自らの名前で多くのお酒を醸造しています。1837年には鉄鉱石からなる現在の建物が建てられました。キースが元の醸造所を取り壊したのか、または元の建物のデザインを新しい建物に組み入れたのかは不明です。

ハリファックスにおけるビールの人気は、1830年代から1840年代にかけてどんどん伸びていきました。1833年の西インド諸島での奴隷貿易の廃止によって、ハリファックス市住民がそれまで好んで飲んでいたラム酒を製造するための砂糖が減少したためです。

キースは醸造以外においても、尊敬されるハリファックス市民であり、1843年および1853から54年に市長を務めました。また1867年には立法評議会の議長になり、1873年に亡くなるまでその役職に就いていました。

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